真岡市2026
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真岡市 2026
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
道祖土城sk
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| ㊻傾斜量図で見つかった新城! | |
![]() ◆図は国土地理院傾斜量図より |
傾斜量図に怪しい陰影が。。。。 前々から怪しいと、CS立体図の怪しいページで暖めていた。 写真を見る感じでは、山の上に古墳が見える。 大きな2つの古墳だ。 その周りを曲輪が取り巻いているようにも見える。 堀かどうかは、傾斜量図では判断できない。 ひょっとすると、ただの古墳なのかもしれない そう思っているうちに、結構時間が経ってしまった。 |
![]() ◆写真はケイピンさんより |
ところが、本ホームページのお客様『けいぴん』さんが実地確認され、 どうやら城っぽいという情報を得た。 左が踏査を実施された写真だ。 これは 行かないとマズい と思った。 |
| 【彩色縄張り図】 山の東側から南にかけては全面横堀である。 南西の尾根続きは、半端な所もあるが、3重堀である。 なに!?これ。 古墳?も古墳ではなく、城として構築した矢倉台なのかもしれない。 ![]() |
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【アプローチ】 車は小貝川の給水施設の脇に車を置かせて頂いた。 近くに家も無いので、申しわけないが ここから土手伝いに山を直登。 |
![]() ◆図はスーパー地形、Q地図5mメッシュ赤色 |
微地形表現図では、どうみても大きな古墳が2つ見える。 当初、陰影は、この古墳の段築の一部かと思っていた。 |
![]() ◆写真は南の古墳を望む |
ところが山を登り、2つの古墳を横切り 南西に進むとビックリ! いきなり大きな堀が見えるではないか。 |
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南の古墳に登り、上から見ると、ウネウネしている。 おいおい、3重に堀が重なってるぞ。 こりゃ、大変だ。 ・・・しかし、ハッキリ写真で見えるのはこのエリアのみ。 あとは、全然藪だらけで写真にならない・ 特に、主郭内の藪は見事に酷い。 城見学の場合は、覚悟が必要である。 |
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![]() 写真は最外の大きな堀を南から。 あまり、よくわからないですね。 |
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![]() 今度は最外の堀を北から。 結構な堀幅である。 |
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道祖土城を北から望む。 なんでこんなところに・・・というのが印象。 |
| 【考察】 | |
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近隣の状況を見てみよう。 道祖土城周辺は、中世に各氏族が絡み合う 境目のような地域であったことが分かる。 私の知る限りでは、 小貝川の西には、真岡を拠点とする芳賀氏、北には益子氏。 西には結城系の水谷氏がいる。 また、道祖土の谷を東南に進むと、大手坂を抜けて佐竹領である。 ここには真壁氏がいたと考える。 このような各氏の入り混じる中、道祖土城の位置づけは どうだったのだろう。 本サイトは歴史からよりも、 縄張りから城を語ることを優先している。 地誌の歴史は置いておき、もう一度縄張りを見てみよう。 |
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![]() 道祖土城の横堀は、どう見ても麓からの敵を警戒している。 (縄張り図赤➡) 谷戸が広がる東~南面を全面的に覆っているのだ。 小貝川方面は急斜面である事もあり、全く警戒していない。 南西尾根続きは、谷戸から回り込まれた敵の対処のため、 堀を重ねているのだろう。(紫➡) ということは、答えが見えてきた。 この城は、道祖土城から佐竹領に通じる 大手坂までの谷筋を警戒している様に見える。(左上地図を参照) 大手坂方面から進軍してきた敵を、 城と小貝川を堀として、食い止めているのだ。 小貝川をあえて背後にしているということは、 自分たちの退路を絶ってでも、 小貝川を絶対に渡らせないぞ!! という強い意思の表れが見えてくる。 よって、この城は小貝川を渡った対岸の 宇都宮方芳賀氏の城だったと推察する |
いちおう、今回の結果は真岡市、文化課に連絡済み。 真岡市からは >渡邉様 真岡市教育委員会文化課です。 >情報提供ありがとうございます。 >機会を見て、こちらでも現地を確認したいと思います。 >どうぞよろしくお願いします。栃木県には遺跡の発見届を提出し、とりあえず埋蔵文化財包蔵地のエリアにしたいとのこと。 素早い活動に、感激しています。 |
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