嵐山町
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、他の資料(地籍図や写真等)を掲載する場合がある。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
大蔵城sk | 『越畑城?』 | 菅谷城(旧図) | 杉山城 | 奈良梨陣屋(写真掲載のみ) | 『谷ツ遺跡?sk』 |
『谷ツ遺跡??sk』 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
なんでしょね、ここ 2019/10/27 |
谷ツ遺跡は、嵐山インター建設により壊滅した遺跡である。 インター建設前には発掘調査が実施され、2002年に調査報告書がでている(※)。 発掘場所は下図 A,B地点で、Aからは平安の住居群と溝が発見された。 ◆図は※より B地点からは、住居跡が数カ所と、
中世遺物は出ていないものの、舌状台地の上面から南面を下る堀が発見された。 地表面調査で堀は北側斜面にも続き、台地を分断していたという事である。 山を乗り越えるための切通し道とも考えられないので、堀切と判定された。 ◆電子国土より(現在) この堀切と峰続きの東ピーク(上図)は破壊を免れたが、同時の調査で堀切に結びつく中世城郭の主郭部と判断された。 報告書では堀切とセットで嵐山町の ”新発見の城” とされた。 主郭部には約60センチほどの土塁と郭跡が残ると言う。 しかし、あくまでも主郭部は地表面調査のみである。 この報告書を見たのだろう、 谷ツ遺跡を何人かの方が訪れ、ネットに情報をUPされている。 しかしながら ”これが遺構なの???” という疑問を投げかける物が多い。 なんとなくはっきりしない遺構である事は、容易に想像できる。 でも精査すれば他になにかあるかもしれない。 ほほー、面白そうじゃん! 管理人は早速現地に飛んだ |
→このお宅の背後が谷ツ遺跡 新発見の城は大きなお屋敷の背後の山である。 登り道が分からず、ウロウロしてしまったが、結局インター工事で破壊された山の西側から取り付くことにした。 __________________________________________________ 早速だが結論から申し上げよう。
しかし、のどかな風景である。 こういう風景って大好きである。 本当に癒される。 ・・・・こう思いながら帰途についた。 (完了) |
【評価】 ※に縄張り図も掲載されているが、当ホームページでは城とは認められない。 |
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断片的に残る城 2019/1/3 |
【解説】 大蔵城は、源頼朝の叔父にあたる ”源義賢” の城と伝わる。 義賢の息子が、あの ”木曽義仲” である。 義賢は内紛で身内に殺害され、その子 ”駒王丸” はここから木曽へ逃れ、 木曽義仲となったのである。 なんとも、歴史深い場所ではないか! 義賢の五輪塔も近隣に残っている。 ______________________________________________________ 大蔵城は 200m×200m ほどの規模。 それらは断片的に残る土塁、堀の存在によって明らかにされている。 1~8次の発掘調査、文献調査によって、 城は義賢の時代、12世紀からの存在が認められるそうである。 中心となる大蔵神社周りは、「大館」 と呼ばれ、 15世紀以降の遺構とされている。 解説版の大蔵城全体図。 城の東方100mほどに、鎌倉街道が走っており、それに面した作りとなっている。 大手門は、城の東辺にあったと推察されている。 内部は、いくつかの区画に分かれていた可能性が高い。 遺構は、大蔵神社周りがもっとも顕著。 神社は、鬱蒼とした林に囲まれており、昼なお暗い。 左写真は、神社南面に残る土塁。 太くなっていることから、矢倉台と推察されている。 全体的に土塁の残存状況はあまり良くない。 高さはそこそこあるのだが、 神社建築の際、かなりダラされてしまったようだ。 これは神社西面の土塁。 高さは1mほどであろうか。 この土塁に沿って堀が一部残る。 結構な深さで、5mほど。 全部残っていれば、かなりの迫力である。 堀は途中で畑となって消えているが、その痕跡は辿れる。 大蔵神社の南東土塁端、道路沿いには昭和の古い城址碑が建つ。 解説版は全く読めない。 大蔵城最北西隅の残存状況。 かなり破壊されているが、切岸と写真左手に土塁が若干残る。 最南東隅には、土塁と堀が40mほど残る。 かなり破壊されているようで、堀の深さは50cmあるかないか。 土塁は道路で半分?削られてしまっている。 この土塁傍らには、板碑、宝筐印塔、五輪塔の一部が残っており、大切に供養されている。 大蔵城 最北東端より南に下った場所にも、残欠が14mほど残る。 四隅の土塁、堀が残っているので、上記の解説版のような復元がされている。 |
【評価】 そこそこの図面が多い |
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ダメでしょ!ここ 2018/10/28 |
越畑城は関越道で分断された城である。 発掘調査も実施され、3つの曲輪で構成されていたと言われているが、なんとなく遺構が乏しい事は知っていた。 関連するサイトを覗いても、自動車道工事で破壊され、何も遺構が存在しない?という物が大半であった。 ____________________________________________________________ 大抵の資料では、越畑城の位置は、左図の黄色い丘陵地帯としている。 どのサイトでも、遺構がな~い、遺構がな〜いと口を揃えて言っている。 ◆電子国土より そんな折、『埼玉県の館城跡』(※) という本を見た。 私の持っている物は復刻版であるが、とにかく情報量は多い。 ◆埼玉県の館城跡より ◆148が越畑城の位置 この本の解説文を見ると、越畑城が標高107.4mの三角点山頂となっている事に気が付いた。 (↑上図) これは、みんなが調べている場所と一山違っているのだ。 これはひょっとしたら???? 今の今まで、誰もが位置を間違えていたのでは????という疑問にかられたのだ。 しかし、この本は情報も多い分、ガセネタも多いことが知られている。 ちょい、怪しいが行ってみるか・・・・・・ (※ 昭和62年 埼玉県教育委員会編 国書刊行会) _____________________________________________________________ なかなかアプローチのしにくい山で、管理人の選んだ道は関越自動車道の向こう側。 立ち入り禁止のパイロンを無視して、高速下のトンネルをくぐり、三角点の山麓に取り付く。 なんでパイロンを立て、立ち入りを制限しているか、理由はすぐわかった。 トンネルの向こう側には、養蜂箱が多数あったのだ。 ハチさんにごめんなさいをして、素通りさせてもらい、山に取り付く。 山頂までは5分もたたずについた。 三角点は、薮の中にほったらかしにされていた。 あたりを散策するが、何もない。 遺構は皆無。 やはり”埼玉県の館城”はガセが多い。 ________________________________________________________ 仕方がないので、定番の越畑城の場所にも立ち寄った。 やはり、遺構は皆無である。 調査報告書には図付きで主郭に堀が走り、食い違いになってる。 しかし、見当たらない。 発掘した後、埋めてしまったんだろうか? その他、神社のあるニノ郭?にも行ってみた。 斜面に段があるにはあるが、違うだろう・・・ 結局何もない。 址に高速道路を渡ってみた。 出桝形があった三の郭方向だ。 しかし、何もない・・・・ 城址碑が高速の反対側にあるということだった。 位置は最上段図の●に城の石碑がある。 バイクで移動して確認。 草刈に来ていた地元の方によると、かつての場所からここに降ろしてきた、と言っている。 昔は高速の向かい側の山頂にあったのだろう。 碑は、この城の築城者と言われる子孫の方が寄贈したようであるが、 ”城地高峻にして嶮岨空涅塁阯歴々として存し實に北武の要害たり。” ・・・・って書いてあるんだけど、どこが?????、って感じ______ |
【評価】 評価できる図はない。 当ホームページでは城とは認められない。 そもそも城?なのであろうか |
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やっぱ後北条でしょ! 2018/04/20 |
この城は ”後北条氏が作った” これは、40年間、城の縄張り図を描き続けてきた 私の”勘” であり、何を言われようと死ぬまで変わらないだろう。 余談だが、小松左京著 ”日本沈没” の登場人物、田所博士は、長年の研究の経験から日本沈没を予言した。 記者会見で、日本が沈没するという根拠は?という問いに対し、博士は 「科学者の勘だよ!」 と言っていたのを覚えている。 そんな根拠のない”勘”で日本人を大移動させるんですか??!と大バッシングを受けていたが、結局日本は彼に救われたのである。 まぁ、作り話だが。。。。。 杉山城問題が話題となった・・・・ この城は文献資料が少なく、その歴史は謎である。 しかし最近時、僅かに発見された文書や発掘遺物から、上杉氏時代の城とされてしまった。 国の指定を受けるにはハッキリした年代感が必要ということで、今や町の杉山城のパンフレットからは、すっかり後北条氏の名前は消されてしまった。 しかし、遺留品があったから、犯人(築城者)はおまえ(上杉氏)だ!というのは、極めて短絡的だ。 テレビの刑事ドラマでは、このような場合、大抵犯人は上杉氏ではない。 別の人(後北条氏)が真犯人なのである。 考えてみると、お隣の東松山城だって、あんなに文献で ”後北条氏、後北条氏・・・” と名前が出てきながら、肝心の後北条氏時代の遺物は出てこない。 つまり現在は縄張り研究だけでなく 文献・発掘からも、その城がその昔、誰が作ったかははっきり言えない・・・ということなのだと思う。 まあ、そんなことは私にはどうでも良い。 はっきり言って、歴史なんか分からない方がいい。 とにかく今、目の前にイニシエの時代に作られた素晴らしい遺構が広がっている・・・・・これは紛れもない事実。 今、私は自分の目で それが描きたい!! のだ。 2018年4月。 再び訪れた杉山城は大きく変わっていた。 国の指定を受け、見違えるほど歩きやすく、そして ”美しく” 生まれ変わっていたのである! 管理人は過去に2度、この城に訪れたことがあるようだ。 文末には、過去図も掲載して比較してみたい。 さあ、綺麗になった杉山城! ご一緒にどうぞ。 |
【解説】 ・・・と書きながら、余計な解説は無用であろう。 管理人の特記事項だけ記載させていただく。 まず、駐車場である。 杉山城に歩いて行く人は、なかなかいないと思う。 これは、大切な情報だろう。 ◆駐車場所A 駐車場は、A をお勧めする。 広い空間で気兼ねなく置ける。 城中枢部までは少し歩く事になるが、遺構を楽しみながら見学できる。 Cはお勧めしない。 積善寺の裏に回り込み、大手前に強引に置くものだ。 畑跡で地面が凸凹、数台しか置けない。 なにより遺構を壊しているような気持ちになる。 最近は町でBに駐車場を作っている。 今日(2018/6/30)確認したら、ほぼほぼ出来上がっていた。 ◆電子国土より。 杉山城駐車位置 駐車場所Aの脇には、すぐ案内板がある。 城までは迷うことは何もなし。 では、写真と位置図で、杉山城の遺構を楽しんでもらいたい。 写真は異なる日時に撮ったものを混在させている。 便宜上、各曲輪の名称は町のパンフレットに従った。 正式な呼称ではないので、お断りしておく |
北三の郭 |
遊歩道を上がってくると、まず目に飛び込んでくるのが北三の郭の堀。 だいぶ埋まってしまったようだが、もともとそんなに深くは無いのだろう。 竪堀で通路幅を狭くしているのがニクイ。 |
北二の郭 |
北三の郭を過ぎると、北二の郭の遺構が広がる。 見事な横矢。 見事な導入路。 まるで、縄張り教本だ。 朝日を浴びる北二の郭堀。 なんと美しい構図であろう・・・ 北二の郭の南には堀が回る。 ここについては後ほど考察する。 北二の郭の枡形虎口。 外枡形門?になるのか。 曲輪端を利用したこのような枡形は、 通称『比企型虎口』などとも言われているようだ。 |
さて、いよいよ本郭である。 この眺め。 ほんとワクワクする。 ♪((O(〃⌒▼⌒〃)O))♪ 朝日を浴びる本郭切岸。 広い本郭。 季節は4月。 ツツジ、八重桜が満開であった。 おそらく昔もあったであろう城址碑。 懐かしんでいると、八重桜の桜吹雪が歓迎してくれた。 綺麗な整備のおかげで 外郭コーナーまで望むことができる。 在りし日の中世城郭は 基本 『木』 は植えなかったと聞く。 今のこのような景観が 往時の杉山城だったのだろう。 在りし日の城の姿。 そして40年ほど前に、この城を訪れた若かりし頃の自分。 その2つの姿を思いを馳せる。 しばし思いにふけってしまった。 本郭虎口を降りてみる。 遺構は薄いが、枡形門であろう。 本郭下から坂虎口を見上げる。 心踊らされる本郭の障壁。 美しい・・・・ 美しい。。。。 ___________________________________________________________ さて、目を本郭の南側に回り込もう。 井戸郭に向かい、本郭切岸は低くなっていく。 この場所は、堀の深さが本郭で一番低い。 本郭から井戸郭へ木橋を掛けるためか。 橋脚の長さをあまり長くしたくなかったのだろうか。 |
井戸郭(馬出し) |
井戸郭の土橋。 右手に矢倉台。 左手には横矢が掛かる。 かわいい。。。。 ここは複雑な折の連続となる。 |
東の郭 |
本郭より東の尾根の郭に向かう。 本郭から、東二の郭を望む。 向かって左の土塁は極太である。 その先には虎口が見える。 東二の郭に降り、極太土塁から本郭方面を望む。 東二の郭の虎口は、 本郭同様枡形門であったようだ。 東二の郭虎口下から、本郭方面を望む。 東二の郭虎口前面から、本郭を望む。 綺麗な区画の東三の郭。 写真位置が、導入路だったようだ。 写真は残念ながら7月撮影。 雑草に阻まれている。 東三の郭から先は、遺構はない。 |
南の郭 |
本郭より南に下ってみる。 外郭部の堀。 見事な虎口である。 何も言うことは無い。。。 往時は薬研堀であったのか? 切込みがすごい。 土塁コーナー部。 わざわざと張り出し形状にしている。 外郭と馬出しは、木橋でつながっていた。 |
付記 |
さて、左は町の縄張り図である。 西面の竪堀①②③の表現に着目したい。 図面では立派な竪堀になっているが、管理人と解釈が異なる。 というか、この図面が現状を元に書いたとすると、ちょっと書きすぎなのでは??と感じてしまった。 他にも竪堀を強調しずぎる傾向が、この図面にはある。 ①・・・無いと判断した ② 竪堀は下まで行ってない。 山の下側には竪堀を思わせるような崩れはあるけど・・ ③ 多分無い。 この下に細い溝状の竪堀様遺構があるが、道跡と判断した。 ________________________________________________________ 冒頭にも書いたが、かつて管理人は、この城の縄張り調査を行った。 その現地縄張り図の比較である。 一番左と真ん中が昔の調査図で、右端が今回のもの。 ルーズリーフに書いているところに年代を感じるが、実はいつ描いたか分からない。 そこで、引越しのときのダンボールを大捜索。 すると、原図と青焼きが出てきた! おそらく真ん中の調査図を元に描いたと思われる。 調査年月日は 1981年12月27日。 今から37年前である!! 大学生の頃のものである。 しかも住所が菅谷村になってる! ・・・そしたら最左端の現地図はいつ描いた??? 残念ながらそれは分からなかった。 おそらく、高校生くらいのものであると思う。 |
エピローグ |
いろんな思い出のある杉山城。 37年前。 50歳を過ぎても、今だ縄張り図を描き続けている自分が想像できたであろうか? おれも歳をとったなぁ~。 タイムマシーンに乗った気持ちになりながら、杉山城を後にした。 (おわり) |
【既存縄張り図の評価】 ほぼほぼ評価できる既存図面が多いが、主郭北東の横矢部を見落としている図面が散見する。 |
!旧図 1979年作図 |
【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難があると思われますが、ご参考に。 今後機会をみて改訂したいと思います。 ●その後、ダンボールをひっくり返すと1979作図の図面が出てきた。 北の外郭が描けていないことから、本編に掲載した旧図の最左端の清書と思われる。 管理人がまだ、高校生の頃のものである。 いったい俺は杉山城に何回行ってるんだろ? 【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。
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奈良梨陣屋sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
第二回 調査は完了! 2019/05/01 |
再びの訪城である。 奈良梨は中世の街道 ”鎌倉街道 上道”沿いにある。 第一回の繰り返しになるが、この街道沿いには、比企郡の中世城郭が集中し、 大蔵城ー菅谷城ー杉山城ー高見城・・・・・・・ と城が連続している。 このライン上に、忘れ去られたように存在するのが、ここ奈良梨陣屋である。 位置的には 杉山城―奈良梨ー高見城 という順番となる。 管理人も、この比企郡に引っ越してきて、初めてその存在を知った。 発掘調査結果から、築城時期は戦国から江戸期にかけてという。 しかし、現状の遺構から判断するに、かなり新しい感じがする。 せっかくの五月連休であるが、雨が続いていた。 ふと見ると、雲に切れ間が。。。 そこで、陣屋跡の八和田神社を再訪した。 |
【解説】
雨が降り出す前にと、早速神社拝殿に回る。 ここ、北側には土塁が走っている この土塁を東に進むと、土塁コーナーがあり、陣屋を紹介する唯一の看板がある。 神社で言葉を交わしたご婦人は、 「こんなところに看板があるなんて!! ここが陣屋跡だなんて、今の今まで知らなんだ!」 とおっしゃっていた。 地元にも、全く馴染みがない事がよくわかる。 確かにこんな看板位置じゃ、だれも気づかないだろな。 コーナーを曲がると、長い浅い堀が南北に延びる。 堀の南端の城内側には、池がある。 後世の物なのか、それとも昔からのものなのか・・・・・?? よくわからない。 目を転じて東側の土塁である。 だいぶ崩されているようで、土塁は段々低くなり、消滅している。 (コンプリート) |
【既存縄張り図の評価】 群馬の山崎一さんが、かつて ”群馬県古城塁址の研究 補遺編”にて唯一公開している。 遺構が遺構だけに大きな誤りは無いが、距離感がイマイチという感じする。 |
第一回 ここ、今度絶対こんど来よ! 2019/03/31 |
陣屋の敷地は、現在八和田神社となっている。 かつては賑わいを見せていた神社のようで、左上写真手前の道路は、約250m程の長い参道である。 奈良梨は中世の街道 鎌倉街道 上道が通っていたという。 この街道筋には中世城郭が集中し、その連続性をたくさんの城郭研究者が指摘している。 その中で、なんとなく漏れているのが、この奈良梨陣屋である。 位置的には、杉山城ー高見城の間に所在することになる。 神社の裏手、というか背後に遺構が残る。 神社拝殿の北側には土塁が残り、 拝殿東面には、土塁、堀が直線に残存する。 解説版が堀際に立つ。 発掘調査結果では、堀は薬研堀であったという。 また、当陣屋の存続時期は、戦国時代から江戸期にかけてと推察している。 下の写真は、拝殿東面の土塁、堀の現状である。 こんど時間の有るときに、図面を描きにこよう。 (たぶん続く) |
【既存縄張り図の評価】 管見の限り、ここの縄張り図は無い。 |
菅谷城 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
!旧図 1981/10/10 |
【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難があると思われますが、ご参考に。 今後機会をみて改訂したいと思います。 ※思い出したのだが、この城は図面でわかるように、大昔アホな輩に騙され、主郭連絡を木橋にしている。 それは、当時付き合っていた輩の意見で、現在の土橋(赤網掛け)を無視した仕上げにしてしまった。 今思えば、主郭土橋は古図にも描かれているものであった。 図面の出来も恥ずかしいが、輩の話を間に受けてしまった当時の自分も恥ずかしい。 ちなみにその輩は、どこかの立派な学芸員になっている。 【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。
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